松山市にあるクレープ屋Hi5(ハイファイブ)です。
いつも朝方来てくれるおばあちゃん(81歳)が
生い立ちをいつも聞かせてくれます。
戦時中は「警戒警報」と「空襲警報」の2種類の警報があった。
警戒警報はなにもしないが、空襲警報なら学校に備えてある防空壕へ
先生と一緒に(押し込められるように)避難するんだとか・・・。
話を聞いてるだけだと、まるで映画やドラマの話を聞いてるみたいですけど
目の前のおばあちゃんは実際に体験し
何もなくなってしまったところ(街)から
このような素晴らしい国を再建してくれたのには本当に頭があがりません。
お年寄りは労わりましょうね。
さて、戦後から72年が経ち
焼野原からこのような住みやすい環境を整えてくれて
何不自由ない生活を当たり前のように生活している僕たちですが
ここで総務省の記録を見てみましょう。
昭和20年7月26日
松山市の中心部に焼夷弾(しょういだん)
【建造物を焼き払う目的で使う、燃やす薬剤を入れた投下爆弾や砲弾】
が投下され、壊滅的な被害を受け数多くの死傷者を出した。
その被害状況は次の通りである。
被災面積4.79km2(全市面積87.81km2、被災比率5.4%)、被災戸数1万4,300戸(全市戸数2万6,000戸、被災比率55%)、被災人口6万2,200人(全市人口11万7,400人、被災比率53%)。
<空襲後の松山>
(立花橋から県庁方面をのぞむ。)
~~【総務省松山市における戦災の状況(愛媛県)】より~~
そんな戦争を経験した人は多くを語りたくありません。
辛い思い出は忘れてしまいたいからです。
戦争を経験した人は、今の日本にはどのぐらい居るのでしょう?
72歳以上の人は戦争を経験していますが、71歳以下の人は戦争を経験していません。
2017年現在では、日本の人口の中の70歳以上の方々が占める割合は約20%です。
そして、2017年時点の日本の人口は1億2千6百万人ですので、2千5百万の方々が戦争を経験していた計算になります。
機会があるならどんどん話を聞き
どのように復興へ向けて頑張ったのか?
等、体験談を聞くのもいいかもしれません。
復興のあゆみ
戦災にあった松山市と松山市民の虚脱状態からの、脱出の第一歩の事業が清掃事業であった。
市民は市に協力して、焼け跡の清掃整地に立ち上がり、昭和25(1950)年までに約168万8,473m2を整地し完成した。
地域の住民たち、みんなが協力しあって今の街づくりができてるんですね。
地域の人が、自分たちの地域のために力を合わせるって凄く重要ですね。
それにはもちろん、方向性を決め様々な役割を分担する人や、自分の得意分野を活かして復興に参加する人。
文字通り力を合わせて成し遂げてるんですね。
これからも愛媛、松山がどうすれば活性化するのか?
よりよい地域として成長を続けていくのか
とてもワクワクします。
僕も地域活性化に貢献しこれからも松山市、愛媛県、四国、そして日本の成長を手助けできる人になりたいです。
この記事を書いた人
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2011年の東日本大震災をきっかけに【便利になりすぎた日本】で何不自由なく当たり前のように生きている自分が嫌になり言葉も地理も分からない東南アジアを携帯電話やインターネットの環境も断ち、2カ月間バックパッカーをして何も無い体一つの状態で生活してみる、そこで沢山の人々と接して生活していくなかで人とのコミュニケーションの大切さを知る。
コミュニケーションの大切さや日本の良さ、これからの日本のあり方を若者やお年寄りの方と話し合えるような場所、人が集まるような場所を作りたくて「老若男女集まるにはクレープ屋だ!」と、思いクレープ屋をはじめる。
多くの人に生きる喜びを伝えていきたいです。
このままでは人間は人工知能に支配される。と、本気で思っている(笑)
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